最終回 危険なクスリ
●サリドマイドの再承認
46年前に販売が中止されたサリドマイドが国内で「多発性骨髄腫」治療薬として再び製造承認を受けました。
睡眠薬などとして服用した妊婦から生まれた胎児に多くの奇形をもたらしたサリドマイドは、長い時を経てハンセン病の治療薬として再びクスリの世界に戻ってきました。
ハンセン病の治療薬として使用されたブラジルでは、すでに奇形児が生まれるという悲劇が起きています。これは、クスリのパッケージに描かれた「妊婦の使用を禁止するピクトグラム」を識字率が低い貧困層の妊婦が中絶薬と誤解して服用したためといわれ、このクスリの業の深さを感じずにはいられません。
米国では2006年に多発性骨髄腫の治療薬として承認され、国内でも医師の個人輸入によって多発性骨髄腫に使用されてきました。もちろん野放図に使用されていたわけではなく、ガイドラインに沿って使用されてきました。そのため、国内では今のところ奇形児の発生は報告されていません。
●記憶
中学校で同級生だったH子は下肢に異常を持つサリドマイド児でした。彼女がサリドマイドによる奇形児であることは誰もが知っていましたが、しかし彼女の口から直接聞いた人は誰もいなかったような気がします。
下肢以外には異常はなく、私たちは彼女と歩くときゆっくり歩くことを心がける程度で他はごく普通に付き合っていました。
しかし、毒々しい言葉や忌避する言葉を投げつける男の子たちもいて、そのたび私たちはハラハラしたものです。
そんなときも、H子は怒りも泣きもせず、ただ黙っていました。もしかすると、そうすることで彼女はせいいっぱい母親をかばっていたのではないか、と今になって思います。
クスリの催奇形性の悲しさは、母親が一生自分を責め続けることにあります。
●危険なクスリを安全に
私のサリドマイドの最初の記憶はH子であり、そしてサリドマイドの記憶が風化しようとしていたときも、なお私の中に在り続けてきました。
今では、サリドマイドの催奇形性は、その血管新生を阻害する作用によることがわかっています。しかし、同じ作用にがん細胞内での血管新生を抑え、がん細胞の増殖の抑制効果が期待されています。治療のための作用が副作用を発現させる機序になっていることはよくあることです。
サリドマイドの後も私たちはいくつも薬害を経験してきました。おそらくこの世に安全なクスリはありません。
危険なクスリは排除しよう、という議論もあります。しかし、どんな危険なクスリも、治療効果に根拠があり、その治療薬が唯一無二のものであれば、そのクスリを使うべきではないでしょうか。そこには患者さんの切実な思いが託されています。
危険なクスリを安全に使うことを可能にする、それが薬剤師の技術だと思うからです。
※患者情報保護のために一部設定を変えています。